100年に一度咲く花
「AJIOKA.」は、1917年に「味岡順太郎商店」として東京・日本橋に開業。以降、多くのお客様にご愛顧をいただき、2017年2月で開業100周年を迎えました。この節目となる年を祝して、プラントハンター/そら植物園 代表 の西畠清順さんとコラボレーションを行いました。
伝統から新しい価値を生み出し、次の時代へと伝えていきたい。そんな「AJIOKA.」の想いを受けて、清順さんが記念樹に見立てたのは、100年に一度しか花を咲かさないという幻の植物、センチュリープラント。花が咲き、種が生まれ、次の時代へと繋がっていく。「AJIOKA.」の未来を、植物のたくましい生態に重ねて、この春に三越本店で開催した100周年記念イベントにおいて、センチュリープラントを展示しました。また、記念樹に実った種は、この秋にお客様に贈答予定です。
100周年記念プロジェクトのコラボレーターである清順さんに、センチュリープラントの驚くべき生態、そして自身が代表を務める「そら植物園」の活動を通して届ける、彼自身の"想い"についてお話を伺いました。
「そら植物園」が
植物を通して届ける想い
PHOTOGRAPHY BY THOMAS WHITESIDE
TEXT BY KURUMI FUKUTSU
植物との出会い
- プラントハンターとしての活動を始めたきっかけは?
- 家が植物の卸をしていたので、幼い頃から植物に囲まれて育ちました。かといって、当時の僕は、家業に全く興味がありませんでした。けれども、21歳の時に訪れたマレーシアのキナバル山で、世界一大きな食虫植物を見て以来、植物に強烈に惹かれるようになりました。やがて家業を手伝うようになり、植物を触り始めた途端に「これだ!」という強い確信が生まれたのです。それまでは自分が得意なことをやっても、世間的には中の上ぐらいまでしか到達できませんでした。けれど植物に関しては、周囲と比べると飛び抜けた才能を持っていた。植物を扱うのに必要な技術や知識を、普通の人の何十倍も早く体得していきました。当時から、まずは兵庫から東京へ、そして、ゆくゆくは世界に出て、勝負してやろうと意気込んでいました。そして現在、創造的かつ挑戦的なプロジェクトの依頼が、世界中から寄せられるようになりました。若い頃に抱いていた野望が、現実となったのです。
植物を求めて世界を巡る
- どのような国に行って植物を探すのですか?
- これまでに35以上の国を訪れました。特にイエメン、グアテマラ、マダカスカルで出会った植物は印象深かったです。最近では、月に一度は海外に出向いて、植物の買い付けや調査を行なうようにしています。時には1泊3日の強行スケジュールで海外に飛ぶこともあるんですよ(笑)。
日本の植物の魅力を
再発見する
- 世界一の食虫植物から受けた衝撃を超えるような植物は、その後出会いましたか?
- 2012年3月に行なった"「桜を見上げよう。」Sakura Project"というプロジェクトでは、日本の桜の魅力に驚かされっぱなしでした。東日本大震災の一年後の春、復興を願って、日本全国47都道府県から桜を集めて同時に咲かせるという前代未聞のプロジェクトを企画しました。広島からは原爆に耐えた被爆桜の枝、高知からは牧野植物園の牧野富太郎氏が名付けたセンダイヤという桜、長崎からは大村市の門外不出の大村桜、京都からは世界遺産の銀閣寺の庭園の山桜など、桜自体の美しさは勿論、それぞれの桜に宿るストーリーに心を奪われました。イベント当日、一つの植木鉢に活けた桜が見事に咲いたことで、植物の"想い"が人々の心に届けられたような気がしました。
100年に一度咲く花
- 「AJIOKA.」100周年のために見立てたセンチュリープラントとは、どのように出会ったのですか?
- 今回のプロジェクトのために見立てたセンチュリープラントは、別件でイタリアで植物探しをしていた時に、開花前の状態で見つけて、それから日本に輸送して保管していました。鉢植えされた状態での開花は、日本では過去に記録としての事例がなく、日本初となる開花の際には、ご縁がある方にお譲りしたいと考えていました。そんな折に、以前から親交があった「AJIOKA.」さんから100周年記念プロジェクトのお話を頂き、ならばセンチュリープラントがピッタリだと考え、見立てさせて頂いたのです。センチュリープラントの名前は、そのあまりの成長の遅さから、開花まで「一世紀」を要すると誤認されていたことに由来します。実際も、開花まで数十年を要し、開花後も一年かけて種を作る、生命力に溢れた植物です。そんなセンチュリープラントのたくましい生態と、100周年を迎えた「AJIOKA.」とが重なり、今回のプロジェクトでセンチュリープラントを開花させ、そして種をお配りすることで、「AJIOKA.」の想いを未来へと繋げようと考えたのです。
- 清順さん自身も、高祖父の代から150年続く「花宇」の5代目にあたるわけですが、
植物の世界における伝統については、どのように考えていますか? - 先代の仕事を意識したことはありませんが、曽祖父の仕事が大変優れていたとは話に聞いていました。僕の10倍以上、稼いでいたようです(笑)。稼ぎの話は置いておいて、僕自身は、伝統よりも時代性を重視して、植物と付き合っていきたいと考えています。会社というのは、先頭に立つ人間の裁量で、福にも禍にも転じる。だからこそ、今の時代に何が必要とされているかを、自分自身で見極めていく必要があると思うのです。
植物を通して
発信するメッセージ
- プラントハンターの仕事を通して伝えたい想いとは?
- 当初は、純粋に植物を販売するのが楽しいから、そして生活に必要なお金を稼ぐために、仕事としてプラントハンターの活動を行なっていました。しかし近年、前述の桜のプロジェクトもそうですが、幾つかのプロジェクトを経験したことで、自分の活動が単なる商業的目的を超えて、人の役に立つことが出来るのではないかと考えるようになったのです。社会のために自分が出来ることは何か? 自分にしか出来ないユニークな活動は何か? 猛烈な勢いで考え始めたわけです。そんな想いを込めた初めてのプロジェクトが、今年12月に神戸で主催する、東日本大震災からの復興を願うチャリティーイベントです。世界一大きいクリスマスツリーを神戸港に設置し、そのツリーを囲みながら、素晴らしいミュージシャンの方々の演奏を楽しんで頂きたいと考えています。阪神淡路大震災を経験した神戸から、東北に復興のエールを届けたいのです。
プラントハンターの仕事は、精神的にも体力的にも決して楽ではありません。けれども、プレゼンが通った時、魅力的な植物を見つかった時、植物が無事に通関を通った時、そしてプロジェクトが成功した時、その全ての過程を心から楽しむようにしています。まるで毎日がキラキラとした青春時代のようです。世界中に自分と仕事をしたくて待っていてくれる方々がいる。僕にとってこれ以上の幸せは無いと思うのです。
バイオグラフィー
西畠清順
幕末より150年続く花と植木の卸問屋の五代目として兵庫県で生まれ、中学生のとき阪神淡路大震災を経験し、高校3年間は、学校の前に仮設住宅がある風景をみながら過ごす。21歳より、日本各地世界各国を旅してさまざまな植物を収集するプラントハンターとしてキャリアとスタートさせ、いまでは年間250トン以上もの植物を輸出入し、日本はもとより海外の貴族や王族、植物園、政府機関、企業などに届けている。
2012年、ひとのこころに植物を植える活動・そら植物園を設立し、名前を公表して活動を開始、初プロジェクトとなる「共存」テーマに手掛けた世界各国の植物が森を形成している代々木ヴィレッジの庭を手掛け、その後の都会の緑化事業に大きな影響を与えた。
また、東日本大震災復興祈願イベントとして、日本全国47都道府県から集めた巨大な桜を同時に都内でいち早く咲かることに成功した「桜を見上げようsakura project」は、全国的なニュースとなり、その後、植物に関するさまざまなプロジェクトを各地で展開、日本の植物界の革命児として反響を呼んでいる。
from-sora.com