絵画の中にある「色」の役割
TEXT BY YOSHIKO KURATA
- TEXT BY YOSHIKO KURATA
東京藝術大学大学院の卒業以前より、東京を中心に作品を展示発表してきたペインターの石井佑果。そこに描かれる果物、植物、壺や風景など誰もが西洋絵画で見たことのあるモチーフは、奇妙にもアルファベットやトランプカードのマーク、音符など記号的な要素と組み合わさって一つの画面に収まる。それぞれのモチーフが自立しながらも、互いが親しみ合い、過去と現在への対話が織りなされる作品群。それらモチーフに込めたユーモアと、最近改めて意識しているという「色」の役割について話を伺った。
幼少期から感じる美術への非現実感
- 美術に興味を持った最初のきっかけを教えてください。
- 香川県の実家で、父親が骨董品や絵をすごく好きで買ってきていたことが影響していますね。アフリカの仮面や鼻が欠けた石像など、世界各国で手に入れたものが、応接間に凝縮されていて。「驚異の部屋」とまではいかずとも、そうしたノリで、こだわって選んだものが置かれている感じはあったかもしれないです。子供の頃、そこにいる時間が長かったので自然と「そういうものを作る人ってどんな人なんだろう」と思っていて。なので、なにかの作品に傾倒するというよりも、美術に関わる人が考えていることに興味がありましたね。
- 幼少期から美術は身近な存在だったんですね。
- そうなんですが、日常生活と地続きというよりは、美術を別次元の特別なもののように感じていました。すごく異質で触れてはいけないものというか。
- その意識は、自分が作品制作する上でも影響していますか?
- 作品は自分を語るものではないという価値観が良くも悪くも植え付けられているのかもしれません。だから、自分の作品にも日常生活や感情という要素は入ってきていないです。
制作環境が変わったことで対峙した自分らしさ
- 「ステレオタイプな西洋絵画を連想させるモチーフや筆致の引用、あるいはアルファベットやトランプカード、ピアノの楽譜といった記号的な要素」という作品のコンセプトにもある通り、石井さんの絵の中に描かれているモチーフは淡々と自立して並べられている印象があります。大学に進学した当初から、そうしたモチーフの使い方を意識していたのでしょうか?
- まったく違い、もっと“描いている(えがいている)”感じの絵でしたね。大学院に入った2019年の末にコロナ禍が始まり、次は修了制作の年なのに学校のアトリエが使えないかもしれないという状況になってしまって。制作を進められないならと、1年間休学して地元の香川に帰ったんです。自分の部屋を改装したアトリエで、ひとり制作に取り組んだら、たがが外れたんですよね(笑)。学内で描いていた時は、ある意味公開制作のような環境なので人目が気になっていたのですが、一人であれば、それまで思い込みでやってはダメだと避けていたことも気軽にやり始められるようになって。ベッタリと絵の具を塗るだけとか、記号のマークを描き始めてみたりとか。田舎で一人で描いていたということもあり、自然とInstagramに作品を載せたくなって、そこでのリアクションもモチベーションに制作を続けていました。この方向性は面白いかもしれないと実感を持って描けたことをきっかけに、今の作風に近いところまで発展できました。
- ひとりでの制作環境がフィットしたんですね。
- そうなんです。それまでも、ルネサンス以前の絵画にあるようなモチーフを参考にすることはあったのですが、もう少し全体に広がりがある描き方をしていました。でも、一人で描く中で自分の性質も分析できるようになって。そもそも絵が苦手だと気付いたんですよね。
- 絵が苦手というと…?
- 画面に対して、ぐーんと気持ちが良いストロークを描いたり、臨場感ある空間を作るようなペインターではないと自覚したんです。むしろ絵画的な描きの要素を入れすぎると、あんまりうまくいかないのかもと気がついて。そこから、作風がどんどん変わっていったように思います。
- とても興味深い感覚ですね。
- 自分から「画家」とは言えなくて、「ペインター」ならギリギリ名乗れるかなという感じです。自分で勝手に「画家」という言葉から本人の生き様や「絵画らしい絵画」を連想してしまうこともあるのですが。
- 幼少期に美術を別次元と感じたという話にも通じそうですね。石井さんの作品を拝見したのが2022年の藝大の卒展だったのですが、トランプカードのように四隅に記号が描いてある構図が印象的でした。
- 休学したくらいのタイミングから、そうした記号的なモチーフをよく扱うようになりました。四隅に記号を配置すると、それこそカードのように絵がこぢんまりとまとまって、四辺が強調して見えちゃうのですが、それをあえて逆手にとりたかったのかもしれないです。先ほど話した通り、絵画的にストレートな表現は向かない分、描き手としての体質に合った見せ方を自分で探った結果、逆に積極的に使えた構図です。
古典絵画へのリスペクトを込めたハズしの妙
- 絵画に対して実直な姿勢と相反して、同展ではポップな印象のダルメシアン柄があったり、作品1点だけが高い位置に展示されているなど、石井さんの作品にはユーモアも感じます。
- 現在の作風に行き着く前から、本来関係ないものを合わせるようなシュールレアリスム的な感覚を用いていて。ダルメシアン柄も、意味としては他の要素とは関係性がないと一目瞭然ですが、それが好きなんです。水道の上に展示していたお城の絵は、わたしにとってはギャグのような感じで…。
- ギャグ…?
- よく映画等で洋館の天井近くに肖像画が飾ってあると思うのですが、そうしたイメージで水道の上にお城の絵があったら面白いんじゃないかって考えて、むしろそのためにお城を描きました。流しもすごくピカピカに磨いて。友達も誰も気づいてくれなかったのですが(笑)。あのスペースでは、窓が大きく壁が3面しかない分、作品の並べ方をミスると、ただクラシックなイメージが好きなんだと勘違いされてしまう恐れもありました。もちろん古典的な絵画は好きですが、やっぱり現代で絵を描いている以上は「ハズし」を効かせる意識は大事だと思っています。
- まさに現代美術だからこそ、という視点ですね。
- 約1年前に開催した日本橋三越コンテンポラリーでの丸山太郎さんとの2人展『ENCOUNTER』でも、推薦者である彫刻家・大平龍一さんが展覧会によせたテキストで、煙に巻くようなハズしの仕方が共通してる2人だとおっしゃってくれて。過去の広大な美術の海から水を掬っているとしても、意味や価値観をくるっと変えて、これまでとは違った塩を生成する感じというか。毎回そうした意識は持っていたいなと思います。
- そうした記号的なモチーフは、パーソナルな想いではなく、どのように決めているのでしょうか?
- 冒頭でお話した通り、自分に直接関わりのないものを選ぶことを自然としてきたので、古くから絵の中で描き尽くされてきたものが選択の対象になっています。いわゆる、みんなが油絵に対してステレオタイプ的にイメージしているものを用いることが多いです。最近気がついたのですが、風景や花も記号として描いているのかもしれません。自分のたどたどしい手つきで描くことで、そうした見慣れたモチーフも図的な見え方に近くなるのですが、やっぱり油絵の具の筆致や質感、色の空間性など細かな部分で、イラストレーションとはまた違った面白さが生まれると考えています。
鑑賞者への新たな伝え方としての「色」
- 好きな画家はいますか?
- たくさんいるので、選びきれないですが… 15世紀の初期ルネッサンスの画家として知られるピエロ・デラ・フランチェスカは好きです。意外と自分と色や構図の感覚が近いように感じて。あとは現役のアメリカ人作家、アレックス・カッツ。大画面にのっぺりとなんてことなく描かれているようで、すごく精度の高い色の組み合わせの絶妙なセンスで絵画空間を作っていると感じていて。最近、自分の作品でもそうした色相に対しての考え方をあらためているところです。
- 自身の作品の中で、色はどのような役割や意味を持っていますか?
- 色には2つの役割があって、ひとつにはイメージのムードを直接鑑賞者に伝えられるものだと思っています。また配色がうまくいっていると、理由なく心地よさが備わるといいますか。食べ物に例えると、食べやすくなるような。もともとわたし自身は色彩感覚が強いわけではなく、むしろ苦手ではあるのですが、鑑賞者が受け取りやすくなるならと、最近配色の大切さを考えて描いています。あともうひとつの役割が、色は画面の中の位置だと思っていて。
- 位置というと…?
- 色彩ということ以前に、隣り合う色面同士の彩度の高さや絵の具の厚み、付け方次第でそれぞれが手前に見えたり、奥に見えたりすると思います。わたしのように平板な絵だったとしても、その1枚に収まるべき絵の具の色の位置があって。配色としては良くても空間の収まりとはまた違う視点だったりするので、自分にとって色は曲者だなという印象があります。根本的に絵の具自体が物質だからということもあると思うのですが、毎回色を決定する際には、そのバランスの取り方で引き裂かれそうになります。まだ成果が出るほどではないのですが、実験中です。
- そう言われると最近の作品では、くすんだ色合いが多くなってきているようにも感じます。
- そうですね。昔の方が少し明るいですが、最近は何色でもない色の選びをより考えるようになりました。これまで2~3年間ほどクリアな色を多く使っていたのですが、いま過去作品を振り返ってみると、色を選びきれていなかったなと思うこともあって。伝わり方をコントロールする1つの方法として配色は気にしています。でも、やっぱり些細な違いで空間性や印象が全く変わってしまうので、無限の選択肢がある世界だなと悩むこともあります。最近アンミカさんの「白だけで100色ある」というような名言がよく頭をよぎるのですが、全部の色に対してそうなんですよね。絵はそうした1回1回の選択が大きな展開のきっかけになり得るからこそ、もっと1回ずつの選び方にストイックになっていきたいです。
過去と現在の絵の対話を生み出す
- そうした制作過程での変化を通して、モチーフの興味も変わってきていますか?
- ゆるやかに変わってきている感じはあります。単純に飽きるので変えたいという気持ちもあり、基本的に連続したシリーズを描くことはなく、螺旋状に制作が進む感覚ですね。最近は、騙し絵や間違い探しにハマり始めています。大阪のTEZUKAYAMA GALLERYで発表する新作では、そうした構図やモチーフも描いていて。たとえば、壺が2人の人の横顔に見える有名な騙し絵があると思うのですが、それを着想源にしていたり。チューリップが間違い探しのように縦に配列してあったり。一貫して、古典的な絵からなにかイメージが浮かぶことが多いですが、1~2年前から気になっていたことを今回ようやく発表できました。
- 絵に始まり、絵に終わる循環のプロセスですね。
- 古めの時代の画集を定期的に見て、その時々で気になったモチーフを選んで使うことはよく行なっていますね。友達からは、パッション的なものじゃなくて本当に絵だけを着想源に絵をやってるんだねと驚かれたりすることもあって(笑)。きっと作品が発展したり、拡張することはあっても、そうしたセンスはその人独自のものとして、いい意味であまり変わりはしないのかなと思っています。
石井 佑果 / Yuuka ISHII
ペインター。1995年生まれ、香川県出身。2022年、東京藝術大学大学院美術研究科絵画学科油画専攻修了。現在は東京を拠点に活動。
絵画が成立するための構造、視覚的アイデアの考察·検証自体をテーマに制作している。果物や植物、壺や風景などのステレオタイプな西洋絵画を連想させるモチーフや筆致の引用、あるいはアルファベットやトランプカード、ピアノの楽譜といった記号的な要素も扱いながら、無数にある選択肢の中から過不足なく絵画として自立する組み合わせや構図を、エスキースの段階で注意深く組み立てたうえでキャンバスに描き切っている。主な展示に『あっけらかんの眺め』(東京・KOMAGOME1-14cas、2021 )、『斜めのフランチェスカ』(東京藝術大学取手校舎、2020)、グループ展に『3cmと3km -対岸を眺める-』(大阪・TEZUKAYAMA GALLERY、2023)、『2人展:塩原有佳、石井佑果』(東京・Satoko Oe Contemporary、2022)など。
https://www.instagram.com/yuuuka141/